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家族のコーチング 基本は家族から

先週、姉との会話でグラミン銀行のユヌスさんの話題が出た。
姉はこのブログを読んでくれているので、先日の「ユヌスさんの講演」の話しを読んで、女性支援の活動に関心を持ったらしい。
PTAや地域の子供の教育支援等の活動にずっと従事してきているので、そのネットワークの中で出会うシングル・マザーの苦労を知っているのだと思う。

生活環境や性格や行動パターンが違う姉と、共通の関心ごとを持つのは、実はそんなに多くはない。

例えば、私は学生時代は"スポーツ"を中心にクラブ活動を行っていたが、姉は"音楽"が中心だった。
そして、私は子供を持たず働いていて、おまけに会社を飛び出し独立してしまったが、姉は子供が二人いて専業主婦、組織にきっちり忠誠を尽くすタイプ。
私は新しいオーディオのセットが自宅に届いたら、バリバリ箱を開けて"取扱い説明書"も読まずにボタンをドンドン押してやり方を憶えるけれど、姉はまずじっくり"取り扱い説明書"を読んでから、ゆっくり機材に触る。
姉はエスニックフードのような香辛料の強い料理は苦手だが、私は好き。
私は思いついたらすぐ実行、姉は石橋を叩いて叩いてわたるタイプ。
私は寒がりで姉は暑がり。

こうやって客観的に見れば違う面に気づくことが多い。

でも子供の頃を思い出すと、姉とはいつも一緒で同じことをしていたような気がする。
母や姉の話しによれば、まだ幼稚園にも上がらない私は、どこへ行くにも金魚のフンのように姉にくっついて歩いていたそうだ。
私より4歳年上の姉は、近所の同級生と遊ぶのに、私を連れて行かなければならないのが本当に嫌だったそうだ。
でも、私を連れて行かないと母から怒られるので、仕方なく毎回連れて行ったらしい。
私が行くと友達のジュンちゃんから「ユウちゃん、またフミちゃん連れてきた~あうっ」と嫌味を言われてしまう。ようするにチビは邪魔なのだ。

私の記憶に残っていることで、その当時を裏付ける出来事がある。
いつものごとく、姉と姉の友人たちと近所の公園で遊んだ時のことだと思う。
気がつくと、思いのほかとっぷりと陽が暮れてきていて、あわてて皆がそれぞれの自転車にまたがり、家路に向けて出発したときのことだ。

姉は必死に「ジュンちゃ~ん、待ってぇ~、みんな待ってぇ~」と前を行く友達に向けて叫ぶが、皆ドンドン先へと行ってしまう。
家に早く戻らないとすっかり暗くなってしまうので、皆必死に自転車を漕いでいて、おそらく風下の姉の声は聞こえないのだろう。
姉はと言えば、その中でただ1人妹を自転車の後ろに乗せているため、重くて友人たちのように早く走れないのだ。
漕げども漕げども、距離は広がるばかり。そのうちに皆の姿は遠くなり見えなくなった。
姉の苛立ちとくやしさは、そのとき頂点に達したのだろう。
「フミちゃんがいるから、フミちゃんのせいでこんなことになるんだよ~、みんな先に行っちゃったじゃないのよ~ぷんすかしくしく」と姉の涙交じりの憤怒の声を、姉の背中にしがみつきながら、聞いた記憶がしっかりと残っている。

あの時、私も幼いながらも、姉の"皆と一緒にスイスイ帰りたい、でも妹を置いては帰れない。"アンビバレントな気持ちがよ~く分かった。
「お姉ちゃん、大変なことになっている....。あうっ」と、必死にペダルを漕ぐためすっかり硬くなっている姉の背中を通して感じた。

思えば、責任感の強い姉の性格は、こうやって形成されていったのではないだろうか。むむっ

そして、私は中学校に入るまで姉の影響を強く受けることになる。
思えば私はいつも、よく動きせっかちな母の膝の上ではなく、ゆったりと動かない姉の膝の上に座っていた。
姉が見たいTV番組を私も好きになった。「ウルトラQ]、「ガッチャマン」、「題名のない音楽会」、「兼高薫世界の旅」などよく憶えている。



兼高さんの番組が始まると、今はなきパンナムの映像が映りテーマ・ソングが「ラ~ リ~ラ ル~ラ リ~ララ~音符」と流れてくる、それだけでワクワクした。

懐かしいですねぇ。下は70年代にカブールへ行った兼高さんです。
あの楚々として優雅な語り口と、堂々とした態度や行動、かなりインパクトがありました。
"国際人とはこうだ"と脳裏に植えつけられたように思います。



私が「旅好き」になったのは、この番組の影響が大きいと絶対に思う。

そして「本」も、姉からの影響を受けていた。
姉の本棚にある世界の名作文学集や、「赤毛のアン」全シリーズや小説、海外ノベルなんでも読んでいた。
イチ早く「荒井由美」のアルバム「ひこうき雲」を買ってきて、「これ、最近出た人なんだけど音楽が新しくていいよ。」と教えてくれたのも姉である。
お陰で、私は今でも友人と共に松任谷由美のコンサートに行く。
また「ロードショー」好きの姉の影響で、私も「映画好き」になってしまった。
姉が中学生、私が小学生の頃、一緒に「メリーポピンズ」を観に、二人で有楽町まで出かけた。
確かあのときは、2階の指定席に座ったと思うが、何だか姉にくっついて、すっかり大人になったような気持ちになったものだ。

真面目でいつも優等生で、周りの大人たちからよく褒められていた姉。

とにかく私の中の姉は、いつも「頭が良くて何でも知っている、すごい大人」だった。オッケー

星星星星星星星星星星星

さて、大人になるにつれ、私の中に"眠っていたDNA"のスイッチがONとなったのかどうか知らないが、クラブ活動や学校の同級生達の影響を受け始めると、私と姉との間に「違い」が出てくるようになった。
そして、姉が結婚した後は、互いの「生活環境」が変わってしまったこともあり、だんだんとコミュニケーションが少なくなっていった。

しかしながら、4年前の父の病気と死を境にして、再び姉とのコミュニケーションが増えるようになった。

家は両親共に愛情深く、父は子煩悩な人で、よくピクニックや海水浴、温泉、紅葉など家族旅行に連れて行ってくれた。毎年お正月に泊まっていた温泉旅館の混浴(すごい)のお風呂が、広くて楽しかったことを今でもよく憶えている。そういった意味では私たち姉妹は恵まれた家庭環境で育ったといえるだろう。父には感謝である。

姉とのコミュニケーションが増えるようになったのは、父の病状を案ずることや、亡くなった悲しみを共有することを通して、自分達が「家族」であることを、再意識させられたからに他ならない。

「私には私の世界があるが、姉には姉の世界がある。」
そのお互いの世界について、私達は情報を共有するようになってきた。
姉妹でもお互いに違っていて当たり前。
大事なことは、「何が違うのかを理解する」ことなのであろう。

姉が、私にユヌスさんの話しをして、同じように関心を持っていることを知ったとき、学生時代の頃の記憶が甦った。
「正義感」が誰よりも強く、公正ではないと思うことには、涙ぐみながらに抵抗し、年長の男性にさえ、くってかかる姉の姿である。

一見すると私の方が過激に映るだろうが、実は姉の方がずっとエネルギッシュで内に思いを秘めた人なのである。

三つ子の魂百まで」というが、ユヌスさんの話しによって、子供の頃に互いの間で繋がっていた「価値観」が何か反応したような感じもした。

姉のボランティア活動も、今後どのように進展していくのか興味深い。



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