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フィレンツェ&トスカーナの旅③メディチ家の礼拝堂

「リカルディ宮」を出て、再び「サンロレンツォ教会」の方角に戻り、その裏にある「メディチ家の礼拝堂」へ向かう。

ちなみにこの写真は、サンロレンツォ教会の内部。

「メディチ家の礼拝堂では」入り口で一人6€を払う。
「リカルディ宮」では一人7€だったけれど、母の年を聴かれて無料になったので、一応「メディチ家の礼拝堂」でも確認してみたが、こちらはフィレンツェ在住でないと高齢者特典はないらしい。

この礼拝堂は「サンロレンツォ教会」の後ろに繋がって建てられている。
右側が「君主の礼拝堂」、左側が「新聖具室」。


歴代のトスカーナ大公の墓所となっていて、8角形の礼拝堂は床も壁も大理石や高価な貴石がふんだんに使われていてとっても豪華。
豪華といっても、墓所ということで使われている石は茶を中心とした大理石で渋く重厚な感じです。
この礼拝堂も外側からは分からないけれど、内部に入ると空間の広さとその贅沢さに圧倒されてしまう。
老コジモの時代に計画され、建築がスタートしたのはその次男フェルディナンド1世の時代から。
多量の石を使ったので、「貴石加工所」がこの時代に創られます。

フィレンツェのこういった名所や館を訪れていると、様々な色の大理石の美しさもさることながら、ラピスラズリなどびっくりするくらいの分量を使って飾られた壁や家具、壺などの装飾の贅沢さに驚いてしまう。ピッティ宮でも信じられないほど細やかで精緻な貴石を使ったモザイクのテーブルなどを数多くみたが、一つづつじっと目をこらして眺めていると時間が足りなくなってしまう。


ずっと上を見上げていくと、クーポラに細やかに書き込まれた天井画と八角形の形に従って配置された窓が見える。
この天井画はピエトロ・ベンベヌーティの19世紀の作品。
この八角形の形に従って建物内部の柱も全てデザインされている。


柱の基盤に入っている「フィレンツェの紋章」。柱には16都市の紋章が入っています。
色調を落とした渋い大理石の中、この紋章には華やかな色の、ラピスラズリ、アラバスタ-、珊瑚、真珠などが使われています。
大公棺の下に16都市の紋章を位置することで、大公の支配を表しているそうです。


この霊廟の隣の部屋「新聖具室」に行くと、そこにはミケランジェロの彫刻が並んでいる。
この写真の一番左がロレンツォ・イルマニーフィコ。

イルマニーフィコとは日本語では「豪華王」とか「偉大なる」と訳されているけれど、ロレンツォはメディチ家が築いた莫大な富をもとに、多くの芸術家達を支援した人。メディチはロレンツォの祖父となる老コジモの時代から富を築いてメディチ家の基盤が固まり、フィレンツェにおける芸術の支援・振興を行っている。
そしてロレンツォの時代にさらに華やかにルネッサンス芸術が華開いていくことになりますが、ご本人はこの像をみても分かるとおり、あまり美男ではないのです。他の彫刻の写真やデスマスクをみてもやっぱりごつい顔でロマンチックな容姿ではありません。ですから「リカルディ宮」のゴッツォリ作の若い頃のロレンツォの姿は、かなり美化されている、、、と感じてしまいます。説明されなければ、想像できてもロレンツォとは分からないと思ってしまいます。
でもロレンツォ・イルマニーフィコはその名に恥じない、歴史を動かす力を持った人物で、彼の人柄をベースにした外交手腕(富もありますし)と強烈な運の強さ無くして、フィレンツェは当時の数多くの都市国家の中で栄華を放ち、影響力をふるうことは出来なかったと思います。そしてそういう孫を育てた老コジモの教育も素晴らしかったのではないでしょうか。塩野七海さんの本など読んでいると、ロレンツォは若い頃から外国の王と謁見するような場への同行を許されて、諸国の王や力のある人たちとの社交や交渉を現場で学びます。まさにエリート教育。
しかしながら、ニコロ・マキヤベリが危機感を感じ強く自軍を持つよう提唱していたように、自軍を持たなかったフィレンツェは、フランスなど諸外国の庇護を受けなければならず、強運に恵まれ外交手腕を発揮したロレンツォの死後は、都市国家としての国家運営はだんだんと先細り的になっていきます。
一人の秀でた才能ある君主の能力によって、国家運営がぐらつくようでは宜しくないのですが、商業的には成功しても国家として機能し続けるシステム(特に安全保障に関するもの)がフィレンツェには欠けていたのですね。
マキヤベリがプリンチペ、「君主論」を書いたのは、そんな時代のフィレンツェで、官僚という仕事柄、諸外国に出向き、他国の王や人々、商人達と話してフィレンツェを外側から見ることの出来た彼は、いつでもすぐに自衛できる自軍を持たず、だんだんと先細りになる優柔不断で決断力のないフィレンツェを案じ、きっと歯がゆかったのでしょうねぇ。だから、冷徹でワンマン、自軍を率いて戦うチェーザレ・ボルジアに理想の君主の姿を見たのだと思います。


ミケランジェロ作のネムール公ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑「昼と夜」


ミケランジェロ作のウルビーノ公ロレンツォ・デ・ミディチの墓碑「曙と黄昏」
亡命中に亡くなった当時のメディチ家の当主。

しかし、なぜミケランジェロがロレンツォ・イルマニーフィコや老コジモではなく、わざわざネムール公やウルビーノ公を彫ったのだろう?と思いますが、政治的な意図があったようです。
時の教皇クレメンテ7世が、彼ら二人の少年を社会的に後押ししたためと言われています。


旅行 : 07:24 : comments (x) : trackback (x)
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