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教会へ通うクリスチャンと通わないブッディスト

友人が最近出会った男性は、背の高いアメリカ人である。
都内で働くビジネスマンで、シャイでとても優しい人らしい。

彼は先週末、教会へ行き、今週末も教会へ行くそう。

その話しを聞いて、ふと思った。
日本人の仏教徒は、なぜお寺に通う習慣がないのだろうか?」

亡くなった祖母は、信心深い人だった。
毎朝必ず仏壇に向かって座り、「お経」を上げていた。

ずいぶん前、祖母と一緒に住む叔母(祖母からすれば嫁)が、40代で亡くなってしまったとき、お坊さんが来て「お経」を上げてくれた。
お坊さんはまさか、檀家の若い嫁が亡くなったとは思わなかったのだろう。
玄関に入ると、ご愁傷さまでしたと言い「本当に信心深い、いい、おばあさんでしたねぇ.....。」と続けた。
家族はギョっとして固まったが、後ろからヌっと祖母が「私は生きております。」と出てきたときには、お坊さんはもっと固まっただろうと思った。がーん

お坊さんが「お経」を上げているとき、祖母もその「お経」と合唱するように、心を籠めて大きな声でお経をあげていた。
その低く朗々とした声は年齢に似合わず立派だった。
またお坊さんよりも、祖母の息が長いためなのか、お坊さんの息が途切れて息を吸っている間、お経が止まっても、祖母のお経は止まらない。
仕方が無いので、お坊さんは祖母のお経に合わせて付いていく。

それが何度か度重なると、お坊さんもさすがにバツが悪いのか、やりにくいのか、軽く促すような「咳払い」を”コホ"っとする。
しかし、祖母は全く気づかないのか知らんぷり。お経をエンエンと、まるでトランスに入ったかのように続ける。もしかしたらお気に入りのお経の一つかもしれない。淀みなく、美しくお経は続く。

そんな信心深かった祖母も、お寺に定期的に通うことはなかった。

なぜ、キリスト教徒は教会に定期的に通うのだろう?

TVや映画を観ていると、教会では、牧師/神父さんが聖書から「説教」を行い、信者は神を讃え感謝するために賛美歌を歌い、祈りをささげている。
また、別の場面では、信者が教会の小部屋で窓を挟んで神父に告白し懺悔を行っている。

考えると、そこには、「教える側と教えられる側」、「許す側と許される側」、「戒律を与えるものと戒律を守るもの」といった、明確な立場と定義があるような気がする。"厳しい上下関係"というのか、"絶対的な存在として神"がある感じ。いずれにしても、平等な立場じゃない感じ。(まぁ神様とですから当たり前なのでしょうが)上から与えられるような愛でしょうか。

その点、日本の仏教は、何だかもう少しゆるい感じがする。
人間が死んで「仏様」になっていくのだから、神様といってもキリスト教で考える神様とは違う。

キリスト経は、絶対なる神様が自分の外側にいて、仏教の場合は、神様が自分の中にあるような感じ。
しかも仏教も神道も、神様を1人とは考えていないし、1人の神様が全てをコントロールしているとはしていない。

神様が自分の中にあると書くと何だかちょっと語弊はあるが、
例えば禅問答のように、中庸な心を保ち成長するために、自分に問いかけて自分で思考し発見するプロセスがある。
その点、キリスト教の場合は自らが考えるというよりも、神から戒律を与えられその教えを生きるというイメージが強い。

誤解を招く表現かもしれないが、「仏教は宗教というよりも、もっと心理的なもの-心理学に近い」ような気がする。

だから社会が成熟して豊かになれば、人々の悩みはサバイバルなものから、もっとウツとか心理的なものになるので、戒律を説くキリスト教よりも仏教の方がフィットするのではないだろうか...。

話しは拡散してしまったが、「なぜ日本人はキリスト教徒のようにお寺に通わないのか?」
現段階では、漠然と「一神教ではないから」とだけしておこう。

今度、詳しい友人に聞いてみよう。





徒然なるままに : 17:53 : comments (x) : trackback (x)
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